岡崎(旧南禅寺境内)には多くの有名な庭園が点在します。
その作庭を手掛けたのは小川治兵衛で、近代庭園の創始者ともされます。
治兵衛は代々、粟田で「植治」を営んでおり、その7代目にあたります。
当ギャラリーでは治兵衛や近代庭園について解説します。
1.近代庭園の創始者
明治以後、岡崎(旧南禅寺境内)では政財界の有力者が邸宅を構えるようになり、現在でも今を時めくユニクロやニトリなどがそれらの邸宅を買ったことで話題になります。
これらの有名邸宅の作庭を手掛けたのは、明治期に活躍し、近代庭園の創始者とされる「小川治兵衛」で、治兵衛は、代々、粟田で植木業を営む「植治」(商号)の7代目でした。
2.疏水と庭園
家業(植木業)の「植治」を継いだ小川治兵衛には、明治中期の「琵琶湖疏水」の完成が転機となります。
明治維新後の遷都で人口減に見舞われた京都が活力を取り戻すため、琵琶湖から蹴上への水運を開削したのです。
治兵衛はこの疏水により、湖西から「守山石」を運搬して庭石商を始めます。
南禅寺境内を通る琵琶湖疏水の水路橋(水路閣)
3.山縣有朋
小川治兵衛が造園家としての名を馳せるのは、元勲たる山縣有朋の別荘「無鄰菴」の作庭においてです。
山縣は多くの別荘をもち、庭園についても豊富な知見を有していました。彼が新たに旧南禅寺境内で手に入れた別荘につき、自然に溢れた情景を表す構想を示しましたが、治兵衛は疏水の水、石、それに樹木をふんだんに用いて、それに応えます。
それが無鄰菴として結実したため、当園は二人の合作ともいえるでしょう。
4.葵殿
小川治兵衛の手掛けた庭園は岡崎エリアに「南禅寺界隈別荘庭園群」として多く点在します。
一方、「植治」が本拠を置く粟田エリアでは、京都屈指の老舗ホテル「ウェスティン都ホテル京都」の庭園が有名です。
治兵衛が若い時に作庭し、晩年に再造作した「葵殿」の庭園で、彼の遺作となりました。
葵殿庭園[ウェスティン京都都ホテルHPより]
5.佳水苑
「ウェスティン都ホテル京都」には、葵殿から斜面を上がった場所に、もう一つ「佳水苑」の庭園があります。
作庭を担ったのは治兵衛の息子の白楊であり、白楊は父の治兵衛よりも石の扱いに優れていたとの定評もあります。
白楊は父に先立ち亡くなったため、当ホテルのに遺る2つの庭園は、父子二代にわたっての遺作といえます。
佳水苑庭園[ウェスティン京都都ホテルHPより]
6.いまに残る治兵衛の庭園
治兵衛(7 代目)による作庭は京都だけでなく全国に及び100 以上あるとされます
あくまで把握できる主要作品の一覧をまとめました、ただ年月とともに改変されているものもあります
下表の右端は公開している庭に〇印をつけています。
治兵衛(7代目)の庭園一覧[㈱都市ガバナンス研究所作成]